静岡市の成り立ちと現在
静岡市の成り立ちと現在
静岡市は2003年に旧静岡市と清水市が合併してできた新しい街です。2006年には新たに蒲原町が、2008年には由比町が編入して現在の形になっています。市の面積と人口は浜松市に続いて県内2位の規模です。市の面積のうち75%が山林、宅地は約9%で、比較的コンパクトに市街地がつくられています。
東西に約155km続く静岡県の中で、静岡市はほぼ中央に位置しています。1年の平均気温は約17度で、雪はほぼ降らないので非常に暮らしやすい地域です。
静岡市は県のほぼ中央に位置し、東京と愛知の中間地点という意味で物流においてはとても重要な地域となっています。まずは静岡市を支える道路について見ていきましょう。
静岡市の道路を語る上で最も重要となるのは国道1号線です。国道1号線は東京都と大阪をつなぐ道路で、静岡県全域を横断しています。いわゆる旧東海道と重なる道路で、東海道にあった53の宿場のうち、現在の静岡市にあたる地域には蒲原宿、由比宿、興津宿、江尻宿、府中宿、鞠子宿の6つがありました。これは1つの市としては全国で最多になります。
国道1号線にはバイパスも多く、静岡市には静清(せいしん)バイパスが通っています。静清バイパスは静岡市街地を通る国道1号線の迂回路として建設されました。全線が開通したのは30年以上にわたって工事がすすめられた1997年3月のこと。暫定的に2車線で開通し、2017年にはほぼ全線が4車線化されています。これにより長年の問題であった国道1号の渋滞は大幅に緩和し、物流の効率化がすすみました。
静岡市から静岡県のもう1つの都市部である浜松市へとつながるのが国道150号線です。国道1号が静岡県の内陸を横断する道路であるの対し、150号線は静岡市清水区から駿河湾沿いの焼津市、牧之原市や御前崎市などを経由して浜松市へとつながる、南側の海沿いを走る道路です。
静岡市街地を走る主要道路には、カネボウ通り、北街道、本通りの3つが挙げられます。カネボウ通りは静岡市の駿河区と葵区を結ぶ県道407号の旧静岡市側の通称。この通りのどこからも鐘紡紡績(現在のクラシエホールディングス)の工場の煙突がよく見えたことが由来となっています。(現在地名は静岡市駿河区緑が丘町)古い呼び名ではありますが、現在でも店舗の名称に「カネボウ通り店」などと使われることがあります。正式な名称としては国道1号が中央幹線であることに対しての南幹線となります。
静岡市の歴史
明治維新後の静岡藩時代、江戸時代最後の将軍となった徳川慶喜やその家臣たちが移住してきました。静岡藩には幕末期に幕府が莫大な予算を投じて吸収した洋学の知識がそのまま残ったことや、幕府の教育機関に所属していた第一線の学者達が移住してきたこともあり、学問と文化のめざましい発展がおこります。藩の学校であった静岡学問所の教育は当時の日本の最高水準にあり、全国の藩が参考にするほどの位置にありました。
その後の廃藩置県で静岡藩はなくなり、1889年に旧静岡市が、1923年には旧清水市が誕生しています。
1889年には東京駅と神戸駅を結ぶ東海道線が全線開通したことや、清水港からの直輸出によって日本一の茶輸出量地域となったことに伴い、静岡市は発展を遂げていきます。現在の静岡市内を走る静岡鉄道も、もともとは茶問屋がある地域と清水港を結ぶために整備されたものです。
大正時代には第一次世界大戦の激化による好景気で、工業化・都市化がすすみ水道、電灯、バス、鉄道といったインフラが整備されていきました。このころ静岡駅から徒歩10分ほどの距離にある七間町には映画館ができ、欧米の思想や文化、芸術などが一般にも広まりはじめました。
繁華街である七間町をぶらぶらと散策する「銀ぶら」ならぬ「七ぶら」が流行したそうです。
昭和に入り1940年には全焼4,991戸、羅災人数26,000人もの大災害となった静岡大火や、1945年の空襲によって旧静岡市・旧清水市の市街地は甚大な被害を受けました。
戦後になり、旧静岡市は火災に強い「不燃化共同ビル計画」のもと、郊外型の大型商業施設に負けない「人のにぎわいの絶えないまち」として全国的に注目されるほどに復興を遂げていきます。旧清水市はGHQによって清水港が貿易港に指定されたことに伴い、復興をすすめていきました。
その後は1964年には東海道新幹線が、1969年には東名高速道路が開通し、首都圏や中京圏との結びつきを強めていきます。そして2003年に旧静岡市と清水市が合併して新「静岡市」が誕生しました。2005年には静岡県としては初めての政令指定都市に移行しています。
その後2006年には新たに蒲原町が、2008年には由比町が編入して現在の静岡市の形になりました。
交通の難所 安倍川のご当地グルメ
現在の静岡市葵区と駿河区を流れる安倍川は、江戸時代は交通の難所として知られる場所でした。ときの将軍徳川家康は、将来自身が隠居する駿府(現在の静岡市)の外堀の役目として安倍川と大井川を重視したと言われています。防衛対策としてどちらの川にも橋を架けることだけでなく渡し舟さえも禁止し、徒歩での通行と定めました。徒歩といっても橋がないので、川の中を歩いて進むことになります。
特に大井川は「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と歌われるほどの難所だったそうです。当時の大井川は深さ70cm以上に達するうえに流れも急で、人足(にんそく)と呼ばれる川越しを生業にしている人に水の中で手を引いてもらったり、肩車や台座を作ってもらったりして渡っていました。
もちろん川越しには料金がかかり、川の水量に比例して高くなります。料金は5段階用意されていて、水位が股下の場合と肩の下あたりの場合では約2倍になったようです。人足がいても渡れないほどの増水時には水が引くまで何日も待つことになります。その後の3代将軍家光の時代から始まる参勤交代の際の川越しは、さぞかし大イベントだったのではないでしょうか。
大井川の川越しは川の両側が宿場町だったこともあり『東海道五十三次』には2枚にわたって描かれています。一方で安倍川は、「府中 あべ川遠景」として街道の様子が描かれています。その中で特に目をひくのは「名物 安倍川餅」の文字。安倍川餅は、弥次さん喜多さんの2人がおもしろおかしく旅をするストーリーで知られる十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも登場する、いわば有名なご当地グルメでした。
『東海道中膝栗毛』に登場することから、安倍川餅の存在が江戸にも広く知られるところであったことが想像できます。柔らかくもコシのあるお餅にきな粉と砂糖をまぶした安倍川餅は、大変な川越しの際の景気づけに大活躍したことでしょう。
静岡市がほこる野外イベント会場 駿府城公園
駿府城公園は徳川家康が隠居していた駿府城の跡地を整備してできた公園です。広さは18ha。復元された東御門や資料館、庭園などのさまざまな施設があり、また、静岡市を代表するイベントである「静岡まつり」や「大道芸ワールドカップin静岡」などの会場にもなっています。
静岡まつりは、毎年4月の上旬に2日間かけて行われ、例年約100万人の参加者が集まる大きなイベントです。徳川家康が駿府城に隠居をしていたころ、家臣とともに花見をしたという故事をもとに1957年に始まりました。両日のメインイベントは「大御所花見行列」。大御所(徳川家康)に扮した男性有名人が街を練り歩くパレードが行われます。
大道芸ワールドカップin静岡は1992年に始まったイベントです。毎年11月初旬に行われ、例年4日間で約200万人が来場しています。現在では静岡市を代表するアジア最大級の大道芸フェスティバルにまで発展しており、日本だけでなく海外で活躍するさまざまな分野のパフォーマーを多数招待しています。海外のパフォーマンスイベントの主催者も数多く視察に来ているので、静岡市で開催されるこのイベントがきっかけで他のイベントに招待されることも多いようです。
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